ひがしまつしまし にいやまじんじゃ | ||||||||||||||
宮城の旅 東松島市 新山神社 | ||||||||||||||
<新山神社の由来> 新山神社は新山大権現ともいい、古くからこの地方の総鎮守でした。社伝によれば平景政が寛治5年(1091)に桓武天皇の第五女(大宅内親王)を祀るために社殿を造営したのが始まりと伝えられています。後三年の役の時にここを通った景政は戦勝を祈願し戦功により矢本・鳴瀬・河南を賜りました。戦勝を報告し社殿を造営し社領を寄進しました。その後、景政の後裔長江月鑑・湯村信重らが修築し、江戸時代になって伊達氏も社殿の修築しています。現在の社殿は本殿・拝殿とも明治時代になって建てられたものです。
境内の裏山は愛宕山と呼ばれ、眺望がすぐれており、牡鹿半島・金華山まで眺めることができます。
<新山神社にまつわる昔話> 昔、新山神社の近くに長者が住んでいました。この長者の家にはわがままな子供達がおり、食事の時などは米をボロボロとこぼすばかりで、一向に拾おうとしませんでした。長者も子供達の将来を心配し、米作りの苦労などを話しても一向に聞く耳を持ちませんでした。 ある年、村では飢饉がおこり村の者たちが次々と餓死していきました。 そんなある日、一人のみすぼらしい娘が長者の家を訪ねてきました。娘は物乞いをし「お助けください」と長者に言ったが長者は聞き入れない。娘が「流し場にこぼれ落ちたものでもよいのでお願いします」と頼むと、ケチな長者もそれならということで、子供達がこぼした米粒を食べさせてやることにしました。 そして娘は長者の家の下女となりました。 それから何年もたつうちに娘はすっかりかわいがられるようになり、一生懸命に働く姿を見ていた子供達も娘を見習うようになっていき家はだんだんと明るくなっていきました。村も飢饉から立ち直っており、村中の人達は「あの娘はただものではない」と噂するようになりました。 ある夜、一条の光が長者の家から飛んでいき、それ以降長者の家の娘の姿がなくなりました。最期に光が消えたのが、老杉の上であったため、娘は「神の化身」であったと村人達は噂しあいました。 その後、村人達は、光り物が止まった山に、立派な社殿を建て、行方のわからない娘を「神様」として祀りました。米を大事にしたので、五穀豊穣の祈願をこめ毎年、初穂を献じて、盛んにお祭りをするようになりました。 後になって、垣武天皇の第五皇女大宅内親王であることが判明し、ある出来事があって都落ちし、供の裏切りにあいながらも一人でこの地へたどりついたのだという。村の人々の尊信は、ますますつのっていきました。
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