とめし とうようじ 
宮城の旅  登米市 東陽寺
東陽寺 山門 東陽寺 本堂 東陽寺
山門 本堂



東陽寺の歴史

東陽寺は、歌舞伎・狂言で知られる先代萩、寛文事件(伊達騒動)で有名な原田甲斐(宗輔)ゆかりの寺です。寺は伊達氏の米沢時代、原田家の菩提寺として羽前国(山形県)西置賜郡小松に創建されましたが、伊達家の転封に伴った原田氏と一緒に船岡へ移り天和元年(1681)、現在地に移築されました。

伊達騒動(寛文事件)が起こったあと原田家は断絶となり、原田宗輔(甲斐)は斬首され、家来が遺体を密かに船岡に持ち帰り、東陽寺の裏に埋めました。その後、東陽寺が現在地に移った際、甲斐の首は梵鐘に隠されて運ばれ、本堂の裏に密葬し、目印に銀杏を植えたといわれています。宗輔の墓と伝えられる自然石は逆臣原田宗輔(甲斐)とういうことで、世をはばかるため墓石は伏せられていたと言われています。後に銀杏の大木の前には、原田甲斐の首塚が建てられました。


第二次世界大戦まで原田甲斐が寄進したといわれる鐘がありましたが軍事徴用され現存していません。



本堂前の中庭

中門


寛文事件(伊達騒動)とは?

歌舞伎などで有名な「伽羅先代萩」(めいぼくせんだいはぎ)で知られる伊達騒動は。三代藩主、綱宗の時に起きました。万冶3年(1660)、綱宗は悪行により隠居を命じられ、家督は2歳の亀千代(4代綱村)が相続することになりました。それとともに幕府は一関の伊達宗勝と岩沼田村宗良を幕府直参大名として仙台藩から割きました。宗勝の嫡子、宗興が大老の酒井忠清と姻戚関係となると権勢をふるうようになり反対派を処断し体制を固めていきました。一族の伊達宗重と伊達宗倫との間で所領争いが起こり宗勝の支持を得た宗倫に譲歩せざるを得ませんでした。

寛文11年(1671)宗重は宗勝の失政を明らかにするために八か条の訴状をもって幕府に訴えました。大老酒井邸で尋問が行われ、柴田朝意・原田甲斐(宗輔)・古内義如が宗重とともに呼ばれ、そこで原田甲斐は伊達宗重を斬りつけて殺し、原田甲斐も斬殺されました。
その後、幕府は伊達宗勝を松平忠昌に預け、田村宗良を閉門、原田家を断絶し12年にわたる騒動に終止符が打たれました。




東陽寺 データ

宗派      曹洞宗
所在地    登米市東和町米谷字越路83
交  通    JR東北本線 瀬峰駅から
         バスで米谷小学校前下車5分
駐車場    有り

地 図(マップファン)


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