< 天皇寺 >
元和二年(1616)、もともと鶴巣下草の地にありましたが吉岡城の完成とともに
現在地(黒川郡大和町)に移された寺である。
宗清は吉岡城主で伊達政宗の三男、三万石の城下町吉岡を開府。
宇和島伊達氏初代秀宗(十万石)の実弟で、実母は側室新造の方
(旧新庄城主六郷伊賀守の娘)、 養母が飯坂の局(吉岡の局)である。
飯塚の局は養母となり三十年、そのうち二十四年間を大和町で宗清と共に生きた。
吉岡では五百三十石を化粧化とし、吉岡の局とされた。
境内は伊達河内守宗清の墓所で、大和田佐渡以下七名の殖死者や、
宗清の養母(飯坂の局)の五輪供養塔がある。
吉岡の礎を築いた宗清は35歳という若さで病死、また養母として政宗に託された
飯坂の局も 役目を終えたかのように同年に亡くなったとの事です。
現在は吉岡城の跡をはっきりとみることはできませんが、隅櫓があったとされる場所に
城内大堤公園がきれいに整備されています。
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宗清の義母、飯坂の局の墓 |