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亘理要害 (亘理城跡・臥牛城跡)


 この地に居を構えた亘理氏が天正19年(1591)に涌谷に移った後、片倉小十郎景綱(かたくらこじゅうろうかげつな)がここに入りました。慶長7年(1602)、片倉氏は白石城に移り、居城を受け継いだ伊達成実は亘理要害の改修や城下町を作り、亘理郡と相馬郡の一部を治めていました。
 臥牛城の名前の由来はここの地形が牛が伏せた形ににていることからついたと言われています。また亘理伊達氏の歴代の墓は、町内にある大雄寺にあります。




亘理神社
 亘理神社 >

亘理の基礎を築いたのは伊達成実(だてしげざね)の統治以降といわれています。戊辰戦争後、亘理伊達家が北海道の伊達市 に屯田兵として移住したのち、亘理地区に残ったかつての領民達が、亘理伊達家の徳治と伊達成実の顕彰をたたえ、亘理神社の創建を明治11年9月に宮城県に申請し、翌12年6月に許可され亘理伊達家の居住地であった亘理要害跡に社を造り、伊達成実を武早智雄命として祀りました。


伊達成実について

伊達成実は伊達家の一門であり、伊達実元(伊達政宗の祖父、晴宗の弟)の長男として永禄11年(1568)、信夫郡(福島市郊外)にある大森城で生まれました。17歳で父の跡を継ぎ伊達政宗に仕えました。成実は武勇に優れ、人取橋の合戦では、劣勢だった政宗軍の形勢をその武勇でもって逆転させるほどでした。
 その後、摺上原の合戦など、数々の戦をし「炎の闘将」の異名を天下に轟かせ、功績を上げていきました。
 豊臣政権の時代、政宗が疑念をいだかれたときも、人質として政宗の為につくすも不仲となり高野山にこもっていました。関が原の合戦時には急ぎ政宗のもとに戻り、上杉家の白石城を攻め、その功績により慶長7年(1602)、亘理領主となりました。領主となったあとは、城下町を築き、新田を開発などをし、また政宗の片腕として数々の重責を担っていました。
 伊達成実は教養も兼ね備えた人物であり、「成実記」を著しています。晩年は政宗の九男、実宗を後継ぎとし、終生、忠義を貫き正保3年(1646)、79歳で生涯を終えました。

明治12年には、臥牛城跡に伊達成実を祭神として、亘理神社が建てられ、それと同時に成実の功績を記した亘理神社の碑も立てられました。

亘理神社の碑



  亘理要害跡には、戊辰戦争・日露戦争・大東亜戦争の忠魂碑がたてられています。その他、江戸時代末期から明治時代
  にかけて活躍した、国学者であり文人であった佐藤桃園の碑(明治32年)が立てられています。


敷地内風景
城跡には遊具もあり、近所の子供達の遊び場となっています
内堀跡
亘理要害(御館)内堀跡


亘理要害案内図
亘理要害(臥牛城跡・御館)・亘理神社 データ



交  通    電車 JR常磐線、亘理駅より徒歩15分
         車   国道6号線から亘理警察署より亘理町内に入り
             すぐ亘理要害の案内板に従う。

祭  神    武早智雄命(伊達成実)

駐車場    なし(近くにヨークベニマルがあるので、そこの駐車場をかりるしかないかもしれません・・・)

所在地    宮城県亘理郡亘理町旧舘32

お問合せ先 0223-34-1884
(亘理神社)

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