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<伊達成実について>
伊達成実は伊達家の一門であり、伊達実元(伊達政宗の祖父、晴宗の弟)の長男として永禄11年(1568)、信夫郡(福島市郊外)にある大森城で生まれました。17歳で父の跡を継ぎ伊達政宗に仕えました。成実は武勇に優れ、人取橋の合戦では、劣勢だった政宗軍の形勢をその武勇でもって逆転させるほどでした。
その後、摺上原の合戦など、数々の戦をし「炎の闘将」の異名を天下に轟かせ、功績を上げていきました。
豊臣政権の時代、政宗が疑念をいだかれたときも、人質として政宗の為につくすも不仲となり高野山にこもっていました。関が原の合戦時には急ぎ政宗のもとに戻り、上杉家の白石城を攻め、その功績により慶長7年(1602)、亘理領主となりました。領主となったあとは、城下町を築き、新田を開発などをし、また政宗の片腕として数々の重責を担っていました。
伊達成実は教養も兼ね備えた人物であり、「成実記」を著しています。晩年は政宗の九男、実宗を後継ぎとし、終生、忠義を貫き正保3年(1646)、79歳で生涯を終えました。
明治12年には、臥牛城跡に伊達成実を祭神として、亘理神社が建てられ、それと同時に成実の功績を記した亘理神社の碑も立てられました。 |
亘理神社の碑 |