片倉家廟所


 白石市の西側、愛宕山(あたごやま)の麓にあり、延宝八年(1680)、片倉氏三代景長(かげなが)が、みずから土地を選んで
 歴代の墓所としました。
 花崗岩の玉垣に囲まれて、10体の石造阿弥陀如来坐像が並んでいます。これは、仙台から石工を招いて造らせたもので、
 一体ずつ味わいが異なり、一見の価値があります。
 延宝八年には、初代景綱と二代重長の墓を傑山寺から移し、以後、当主のみの廟所としました。
 しかし、七代村廉(むらかど)夫人は、主家伊達氏の五代藩主吉村(よしむら)の娘であるため、ともに葬られています。
 また、そのかたわらに景綱の死に殉じた六名の家臣も埋葬されています。
 なお、十一代以降の当主および夫人らは傑山寺を墓所としています。


片倉家廟所正面 廟所配置図 惣家中の碑 殉死者の墓
真ん中に石門があったそうですが現在は壊れています。 石仏の配置図です。
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惣家中の碑 家臣が北海道へ移住する時に建てた碑 景綱に仕え殉死した6人の家臣の墓。景綱を見守るようそばに建てられています。


片倉喜多の墓

片倉家廟所から北へ約100m喜多子の墓があります。父は鬼庭周坊良直、母は本沢直子の一女で、貞山公(伊達政宗)の乳母となり、政宗の名君としての素地・人格形成に強い影響を与えてたとされています。喜多は若い頃から「小納言喜多」と呼ばれ、仙台藩祖・名君政宗を保育し、白石城主・片倉三百年の繁栄の基を築いた賢夫人でしたが、
その生涯については謎の多い女傑であるようです。

喜多の墓 観音堂 少納言 喜多の墓
喜多の墓 入口 須の観音
登り口には大黒天碑や青面金剛碑などたくさんの碑があります。 登り口から多喜の墓までのちょうど中間地点にある観音堂 頂上の案内板のみ喜多子となっていますが喜多が正称であるといわれています。


田村清顕公の墓

「喜多」の墓から約70m離れた場所にひっそりとある田村清顕(きよあき)の墓。そばには宗顕(清顕の養嗣子)・定広(宗顕の縁故者)の墓も建っています。田村清顕公は伊達政宗の正室・愛姫の父で、三春城主(福島県三春)です。田村清顕は坂上田村麻呂の後裔といわれ、伊達政宗に娘(愛姫)を嫁がせ強固な姻戚関係を結び戦国時代には広く名を知られた武将でしたが、豊臣秀吉の小田原攻めに宗顕が加わらなかったため領地を没収されてしまいました。
その後しばらくは伊具郡金山(現丸森町)に隠れ住んでいましたが、陽徳院(愛姫)に招かれ二代城主、片倉重長に召抱えられました。定広は重長の後室の妹で真田幸村の娘、阿菖蒲を妻として片倉氏に改姓しました。
この墓所の一角には「真田左衛門佐幸村御墓」と標識とともに刻銘のない一基の自然石があります。
当時、幕府をはばかりながらも、幸村の霊を慰めるために建てられたものといわれ、付近には真田家ゆかりの家と伝えられているところもあるそうです。

田村清顕の墓入口 案内標識 田村清顕の墓
田村清顕の墓 入口です 墓の周囲木が茂り昼でも暗いです 真ん中の大きいのが田村清顕の墓です


案内板
駐車場に設置されている周辺案内図です。
各所の入り口はちょっとわかりづらいかもしれませんので、よく探してみてください!!

アクセスマップ

片倉家廟所・片倉多喜子・田村清顕公 アクセスマップ

片倉家廟所
(片倉多喜子・田村清顕公)観光データ



所在地  : 宮城県白石市福岡蔵本字愛宕山

駐車場 : 有り(無料)

交 通  : JR東北本線白石駅ーバス約10分
       七ヶ宿線滝の下、下車
        東北自動車道白石ICー約10分

              
問合せ : 0224-25-1321
            (白石市商工観光課)



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