札所十一番十一面観世音菩薩は「小萩観音」と呼ばれている。
文治五年(一一八九年)頼朝の平泉討伐のとき藤原秀衡の三男和泉三郎忠衡の女児五歳を家来 石塚民部守時、
同妻小萩が護って加美郡色麻村清水寺観円(守時弟)のもとに身を寄せて出家する。
元久二年(一二〇五年)に主従共に仙台に移る。女児守時の死後小萩は現在の東照宮近くにお堂を建て女児の護持仏の
十一面観世音菩薩(行基作―奈良時代)を念持仏としてまつりその冥福を祈ったという。東照宮建立の際、天神宮と共に
別当寺としてつつじが丘にうつされ萩徳山仏生寺と称した。明治維新後廃寺になり、観音さんは民家の所有となった。
仙岳寺十五世亮湛僧正が遺憾に思い買収して仙岳院にまつったものである。
(仙岳院設置の説明看板より)
この寺の観音は小萩観音として知られる。古く、藩政時代には榴ケ岡天満宮の地に、その別当寺である修験の佛生寺があったと
いわれるが、退転してこの寺はなくなり、のちに明治に入り十一面観音が商人の手に渡ったことを知った仙岳院の梅小路亮湛師
が、これを求めてこの寺におさめたという。
(仙台の三十三観音より)
観音堂は十一面観音像を祀っている。小萩観音と称され行基作と伝えられ、もと榴ケ岡天神林内修験萩徳山仏性寺にあったが、
其の後商人の手に渡ったが仙岳院十五世亮湛がこれを買収して此所に安置したものである。
(青葉の散歩手帖より)
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